瑪瑙異書類従

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2017年6月28日水曜日

能動的な読書

この中華書局から出版されているシリーズは原文と註釈、さらに現代語訳が掲載されていて、能動的に読書を進めるにはとても勉強になる参考書です。
装丁もとても素晴らしく、手に持った感じ、文字の読みやすさなども含めてとりあえず今の所、タイトルも揃っているし、手に入りやすいし価格も手頃だし気に入っています。

中国では散逸し失われた書物が日本に辛うじてのこされた群書治要などを元に再度出版されたという経緯があります。引き続き読書を進めたいなと思います。


2017年6月25日日曜日

巻き物を持って、何を考えるか。

鶡冠子(かつかんし)という書物に興味があり、現在も調査中ではありますが、不思議な感触に包まれている。偶然みつけた最近出版された巻物が手に入った。今時 巻物タイプの書物なんてあるのかと思ったらちゃんと真面目に作ってあって、木箱も含めてこれはもう、自分のなかでの家宝みたいな、貴重書の仲間入りだ。高価なものが貴重というよりも、誰もほとんど見えていない、興味や関心の範疇外のものの方が確実に尊いと自分は思っている。鶡冠子の話から張九成の中庸説という忘れられた書物の話に持っていきたいと思っているが、肝心の張九成の”中庸説”がまだこれから調査調達しようとしているので、話が追いつかない。

”鶡冠子についての研究はほとんどなされていない。" ➡︎おしまい。みたいな文言ばかりで、本当は中身がないとか、偽書、全部偽物なんじゃないかとか、言われている中で、遺跡の出土品の中に関連資料が発見されたとか、それでも全然研究が進んでいないという佇まいがなにしろ興味深い。

それよりもすごいと思ったのが 張九成の"中庸説"という書物の経緯。長いこと顧みられずにえらい学者(朱熹)にディスられて、洪水や化け物(猛獣)のたぐいの書物だからという世間一般の評価に甘んじて、廃れていった書物。これがとりあえず現在なんと本屋で売っている。相当感覚がとがった出版人がいるんだなと思ってみているのですが、あいにく日本での認知度はほとんどない。現物が見たいので何とか頑張って購入してみます。

円爾という僧侶が13世紀に日本に持ち込んだ書物が現存しているが、そこからまったく何の流れも産んでいない、完全忘却の書物 ”中庸説” 。同名の書物はあるけど元ネタが違うのでそれもまた紛らわしくもあり、煩わしいが。張九成の"中庸説"について調べていこう。

とりあえずさまざまな書物に興味があるので手に入れられるものは確実に押さえていこう。


これが巻子本といわれる装丁の書物(巻き物)。(2016年5月初版発行のすばらしい書物。)中はきちんとした鶡冠子のテキストが展開されている。

話は飛びまして、
自分の中の忘れちゃいけないメモとして2014年にここに記録した。自分の中で絶対忘れちゃいけない重要な写真家BOB MAZZERさん。世間はソールライターさんが熱いとかで、本人不在で、がんがん宣伝して好き放題やっていますが、自分はソールライターさんの写真よりも俄然、BOB MAZZERさんの写真の方が好きです。隠遁生活をえらんだ人間の作品にふれるという事は、このソールライターじゃないけども、鶡冠子でもないけれども、極安全領域といった風情や神秘感や絶対非依存的な意識が溢れているように思えて、長年 海の上で生きているのか死んでいるのかほぼ常時音信不通な自分を少し重ね合わせて、遠くの方にかろうじて何か見えるような世界を自力で泳ぎ切りたいなと今は思っています。










2017年6月22日木曜日

新しい古典籍 何を収めるべきかを継続的に考える

最近はずっと読書を継続していまして、手元に本をできるだけ良い状態で確保したいと意識しながら生活しています。中華再造善本が届いた。それぞれが全く同じ形式ではなくて、きちんと独立した書物として完成していた。希望していた何タイトルかはすでに版元売り切れで手に入らなかったが、とりあえずこの西藏志が手に入ったのは良かった。印刷が突出して素晴らしく、使用されている紙もそうなのですが、とにかくこの印刷が素晴らしいというのが実際手に触れて、実物を見て感じられたのが何よりも良かった。上製本ではなく本来の線装本を忠実に再現しているのもまた素晴らしいと思う。






初版本はたったの200部だけでした。中国の人もあんまり買わないのかな?有名な四書五経みたいな本をインテリア的に飾るような消費の仕方なのか?どうかは、いまいちよくわかりませんが。なくなる前にとりあえず中華再造善本、その存在があるという事だけでも気づいて良かった。既に売り切れたタイトルがあるので、根気よく、慎重に集めていきたい。有名なタイトルはおそらくもう売り切れてしまっているでしょうけど、自分の必要とする本に関しては、こまめに集めていきたいと思います。どちらかというと個別の図書館に収蔵されるべき資料性の高い貴重書といった分類です。”西藏志”の内容としましては今から350年位前の清の時代に編纂されたチベット地方の地理志、地方志のような書籍です。
デジタルデータ化の優位性よりもアナログの堅実性堅牢性を自分は意識的に維持していきたいと思います。

機械を扱う身としては、アナログ計器やアナログ操作可能な機械というものは、使い方次第、運用次第でなんとでも応答してくれるのがありがたいと思うことが経験としてあります。デジタルの短絡的な所作出力よりも、途中過程もふくめた生きた言葉なり出力なりを楽しめるような生活を心がけていきたいなと思います。


これは千字文。重続(重續)千字文というものです。

漢籍に触れることのメリットは、自分のペースで文字と意味と内容と向き合えるということだと今は思っています。学者でも学生でも何でもないですが、興味の向くままに、自由なスピードで言語感覚を整える事ができるというのはいい事です。テレビ、漫画、映画などの鋭利な感覚も良いですが、とりあえずは、のんびりと悠久典籍で、意識を時間的に引き伸ばしてみるのも面白いものだと最近は強く感じています。極端に古いという感覚よりも全く新しいもののような感覚がしてくるのは特にこの、造本と文字組み、すなわち生きている文字というか文字そのものの造形を、辞書にのっていようが、いまいがそんな事はとりあえずはどうでもよくて、眺めているだけでも知覚できる形の面白さは十分あるのではないかと思います。



漢籍ではなくて写真作品についてもまた少しづつ調査していまして、未完成な計画中の書籍を出版できるように前向きに準備を進めていきたいと思っています。









2017年6月8日木曜日

線装の次の一歩

なんとか自己完結する形で線装がやりたくて、試行錯誤している。単なる四つ目和綴じならば、すでに写真綴じも含めて普通紙において可能となった。さらに、初期のかっくら返し折本も普通紙での印刷も含めて可能となった。

次の段階として、書道半紙やインディアペーパーのような薄い紙での印刷を含めた和綴じ製本までを、自己完結させたいと思って試行錯誤している。ここでは印刷というのが非常に曲者で、難しく手間がかかる。テキストを版木から制作するのも視野に入れて、浮世絵の多色刷りを実践させたものが正攻法だとすると、今自分がやっているのは、一般のプリンターを使った印刷および製本を実践している。汎用機械の特性を理解した上で応用していく。これが可能になったら、自分でそれを下支えする形できちんと版木のデータを起こして、文字を彫って、本来の版として原版製造するところまでやりたいと思う。

中華再造善本の実物はまだ見れていないけれども、印刷の状態から判断して、それを超えられるような、ものとしての版木の制作という本来あるべきプロセスの重要性を考えながら自分で全てを実践してみたい。その辺に意味がある。

今日は半紙の薄い紙に写真データを印刷することに成功した。
通常の印刷だと紙が詰まってしまうのだけれども、いろいろな試行錯誤を経て、きちんと見られる状態の印刷が実現できた。つまりは本来の線装で使用される、あの軽くてパラパラしたふわふわした状態の紙に写真が印刷できたということである。普通紙や写真用紙のような分厚い紙を使用した、なんちゃって和綴じとは、わけが違うのである。
続けて、この薄い紙にトンボ線を入れて、綴じ穴位置、センター折り目を入れて一枚のページとして完全制作としたい。

大阪の古書店さんから”書林清話”という線装本を購入した。葉徳輝の作品である。
書物というのは、こういう形で生きていくのかと感慨深く、ただ単に原稿を業務用印刷機で大量印刷して上製本でまとめただけでは全く歯が立たない本来の書籍文化がここにあるという絶対的な事実が確認できた。

この手のお金にならない個人の制作に対して、馬鹿にされることも、不甲斐ない思いをするのもまあ、想定済みで、それ自体には、もはやなんとも感じなくなった。ただ自分の意識として、きちんとした本を作りたいというのが根底にある。自分は純粋に校訂や編集作業、印刷綴じ、製本までを実践的に深めていって、どこぞの古典原本ありきの、受け売りの価値を読者に丸投げするような、原本デジタルアーカイブなどというクソつまらない代物に、本作りの意義や意識を吸い取られるようなことだけはしたくないという状況ではある。

じゃあどうするか?とりあえず自分のこれだというものに対して誠実に、校訂と編集を重ねていって、時間がとてつもなくかかるのだけれども、一つでも多く息のかかった本を制作していきたいと今は思っている。模造漢籍を作るのではなくて、これを土台にして写真集を作るのに応用したいということです。テキスト、写真、版面、印刷、装丁、函、すべてに失われつつある漢籍の技術が活かせると思うのです。