瑪瑙異書類従

瑪瑙異書類従
準備中

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prep room 準備室(一号室)
menou books  メノウブックス(二号室)
瑪瑙文庫(三号室)

2017年11月26日日曜日

何周しても元のところには戻れない。


うまく接続ができない状態が続いて、準備室のサイトが崩壊し、死んだ。
船に乗っているから銀行にも郵便局にも行けないのは当然の事なのに、変則的にインターネットにつながる物だから、まともに陸上の日常生活並みに相手は常識を求める。
銀行に千円を振り込みに行くには、ここから泳いで半年以上はかかるだろうよ。コンビニに行くにはどんなにがんばっても泳いで半年はかかるし、多分途中で死ぬ。うまくたどり着いてもまた戻って同じとろまで泳いでも既に船はないだろうよ。コンビニで買ったおにぎりと野菜ジュースを持って、泳いでみても、同じところには戻れないんだろう、確実に。当たり前の事を自分に要求しないでほしい。当たり前の生活ができないのが海の上の現状なのです。

と言った状況ではありますが、とりあえず今は社会インフラから絶縁された状態の自分ですが、なんとか楽しく生きています。テレビも電話も全く必要を感じないけれど、インターネットだけは心の安らぎです。メイジーさんの写真をトップに持ってきた自分のサイトはすごく気に入っていたけど、大人の事情というかつまらない事情で全て吹っ飛んだ。データはあるからまた新しいサイトを制作します。これからもメイジーさん(maisie cousinsさん)の作品はずっと集めて行こうと思っていて、それこそ美術館やギャラリーやら個人コレクターやらそういった、たぐいの人たちがどんなに集めても結局他人の受け売りみたいな場で偉そうな顔しているだけならば何の意味もないし、つまらない。自分の目と足でたどり着いたコレクションを他人がどんなにえらそうな批判をしようが、それに耐えられるだけの自信をもって作品を集めてさえいればそれだけで十分だ。本当にそれだけで生きて行けるだろう。

とにかくメイジーさんの写真、作品は美しい。




2017年8月21日月曜日

半年分の荷物、携帯品

荷造り完了です。
半年間、船に乗って帰ってくるまでに必要なもの、荷造り完了です。
ほとんどが消耗品で、それ以外はノートPCとカメラ、電気髭剃り、本、筆記用具。
一番重く、かさばるのが半年分のシャンプーとリンス。下着類に靴下、タオル、作業服、サンダル。その他は歯ブラシに歯磨き粉。充電電池にバッテリーチャージャー。
ほとんどすべての消耗品を使い切って、下着も作業服も全部処分してくるので、
帰りの荷物は相当軽くなる。
石鹸と洗濯用洗剤が船で支給されるのは15年前から変わらない。
余計なものはほとんど持って行かない主義なので、何が本当に必要なのかを意識して、
何年も同じこと繰り返してきて、これが現状のベストの状態。











2017年8月19日土曜日

できるだけ遠回りして、こつこつと。


8月22日から半年ほど船で仕事してきます。
来年2018年は、できるだけ遠回りして、ひとつづつ課題や目標をクリアしていきたいです。

所持品を限りなく少なくして身軽に、できる限り動きやすい状態で、常に旅行気分で、歩いていける範囲で、できる限り遠回りしていきたい。

今日は乗船準備をして、年末出版するWWB2017のISBNコードとか前倒しで作った。船に乗るのはもうこれで何回めか忘れたけど、旅的感情はわずかで、仕事に直結って感じですね。仕事も日常も全部ふくめてできるだけ遠回りして、こつこつ進めたいという状況です。


旅の手仕舞いみたいなものか。
部屋を片付けている。
家にいる時間が短いような気もするが、そうでない気もする。
部屋をどれだけ整理できるか、そういう状況ではある。









2017年8月14日月曜日

読まずに食べる本。食べずにあつめる本。

自分の部屋は畳の部屋で、そこでひたすら読書とパソコンと映像を見たり写真を見たりそういう時間で今は回っている。今回の陸の生活は半分以上が自分がやり残した試験勉強と、次の生活のための読書と準備に費やした。収穫は漢籍の捕獲作業。
あたらしく準備室の三室目として瑪瑙文庫という名前で漢籍図書室を設置した。

調査の過程で分かったことは、日本に数ある図書館には既に、多くの漢籍テキストが収まっていて、ここから改めて新しい図書を買うような予算や余力や気概や熱意みたいなものは全く感じられずに、むしろそれが自分にとって中華再造善本を買おうという動機付けになった。 たかだか200部や多くても500部程度の初版本を日本国内のみならず中国本土、対象としてもちろん台湾や韓国などでも購買層がいても良いのだろうけど、もはや研究所でも物好きでもほとんどだれも見向きもしないくらいの本の塊は読まずに食べる類の置物の部類なのかもしれない。

再造善本の"両漢紀"が2011年初版200部でまだ残っているということは、買う段階で、テキストの見本が見えないということも含めて、もはや飽和しているということなのかもしれない。自分が一人でこの2017年に及んで狂ったように騒いでいる"春秋左傳正義"36巻については2003年初版300部で15年くらいたっても捌けていないということが 、ほとんど誰も買わないということの証明になる。国費を使った中国の図書館や研究所でも回らないということが現状の漢籍の位置付けということになるだろう。だからと言って本自体の価値がどうこうするはずはなく、だったら自分が集める価値はおのずと見出せるという結論になる。

この文字の塊と、紙、印刷、綴じもふくめて読んでみると、単に実用化されたハードカバーの一般普及書にはない本自体の良さが、手触り、目ざわりの感覚として生きた書物のように感じられるのは大きい。

 "朱慶餘詩集"はとにかくこの文字が異常に美しいことと、折本でまとめられているということが大きい魅力となる。ただ紙が他の再造善本とことなるのは、折本仕様と関係しているのかもしれない。薄い紙で折本を作るというのは至極むづかしいということなのかもしれない。これだけのページ数を折本仕様にするにはある程度まとまりと強度のある紙が必要だということかもしれない。



 問題の"春秋左傳正義"36巻。蔵書印の内訳は現在のところ残念ながらよくわらない。
(北京図書館蔵というのはわかる。)




この"鶡冠子"の蔵書印は馬鹿でかいのだが、よくありがちなのか、どうなのかわからないくらい本文テキストにかぶった感じがうっとうしい。すこしは遠慮しろよと。小さい蔵書印できっちり所在所蔵がわかる印のほうがよっぽど賢そうだし、機能美もあると思う。

とりえずまだまだ自分は入り口にも立っていない感じだから、謙虚に根気よく本を集めたい。積ん読的な場としての瑪瑙文庫じゃなくて、学術的な意味を含めた、資料庫の役目を果たせるような場を独自に確立したい。




2017年8月11日金曜日

文字が生きている



準備室に春秋左傳正義36巻(線装32冊)が収蔵されました。八行本春秋正義です。国の重要文化財である足利学校所蔵の十行本よりも八行本の方が原本に近いのです。国宝である宋版尚書正義(八行本)と同列です。既にあらゆる形で頒布されまくっている阮元版十三経注疏本ものとは違います。自分が所蔵しているのは中華再造善本ですが、文字も印刷も紙もとても美しいです。続修四庫全書の影印とも趣や重要度も違って、状態としては現存する書物としての文字の生きた感じは非常に活かされていると思います。

さらにこちら、本当に文字が生き生きして素晴らしかった、両漢紀。全編にわたって文字がとにかく美しい。原書の旅という感じです。可能なかぎり史部書籍を集めたいと今は思っています。





2017年8月9日水曜日

大雨でも台風でも

自然の災異や現象をそのまま伝えること。
人間の都合良いように勝手に恣意的にブーストしない。
そういう表現を好む。
大波も台風も無風も雷雨も。
予報よりも結果。
予想よりも事実。
歴史書に於ける事実を読み解く術を学びたい。
オカルト的な予言よりも歴史を踏まえた予見というか、そのあたりの事実表記を、
書物から読み取りたい。



乗船間際で書物が到着とのことで、明日受け取りに行く。
いまさらなにをといわれても、過去にたくさんの人が何周もした歴史書の海の中潜っていこうと思います。



2017年7月28日金曜日

おさんぽ お絵描き


少しスイッチが入って なんか一人で盛り上がってきているのですが、この雑誌の何が良いかと言うと、表紙がすごく良い。根源的な描くとか記すとか全身で表現する感じが美しい。書道とか形式ばったものでなく、ダイレクトに暴力的に構造物に記す術。甲骨文字とか石碑とか竹簡とかそっちの流れを汲んでいると思う。生きた遺跡碑文。新しい文字形態。

雑誌のタイトルはHSM GRAFFITIマガジンです。

 10号から13号までまとめて手に入れた。
冊子的には薄いが中身は貴重な記録でまとめられている。インタビュー記事が熱い。デザインだなんだと、PCデータじゃ意味がないと熱く語って、現物に物に直接書き込んで、描き、落としこんでいくことこそ意味があると、アナログ万歳。。すばらしい言葉で綴られている。

結局この表紙の場所、人、撮影データなど一切の情報は得られなかったが、それもまた良いと思う。そういった性質のものだから。


 ステッカーも手に入れた。三栄アート工房 CASPERさん謹製ステッカー。良い感じ。









2017年7月26日水曜日

できるだけ遠くへ



呻吟語は最近手にいれた書物で、線装、函入り、文字が全て青色。文字組が一般的なもので、それほど際立って美しい形態とは感じられなかった。凡庸書物という感じ。ただ紙に埋め込まれたテキスト自体はとても貴重なので大事にしたい。

最近は、普段の自分の日常生活からどれだけ物理的に精神的に遠くへ行けるかを実践している。日常生活が良くも悪くも起点だから、可能な限り離れたところから見える日常はそれだけで価値があるように感じる。

この呻吟語も従来そんなに重要視されなかったみたいだし。
自分がこれは素晴らしい、貴重でしかも、質的量的バランスもすばらしいと思って大事にしている群書治要もきっとそんなに重要視されてこなかったんだろうと最近あらためて感じてはいますが、そこから派生させ、派生してくる二次制作物に期待して、どうにか自分で一から再生産していきたいとはゆるく考えてはいます。

うとうとして、ぼんやり遠くを見ながら、のんびりしようと努めた休日が気づいたらほとんどの時間が、吹き飛んで行く感じで、目の前がどんどん雑然としてくる。いらないもの、見たくないものが溢れてきて、これはちょっと耐えられないなと意識が働いて、ものをどんどん遮断する、切り離す毎日です。

街の本屋を見てもゴミの山のようにしか感じられないのは自分の単なる思い込みだとしても 、本を集めるのは面白いなと。人の写真を見ることは面白いなと。自分で写真を撮るのは面白いなと思うこと場面はたくさんあります。最近も継続して写真をとってはいますが、斜に構えたりせずにできるだけ物事人物の正面を捉えるようには意識的にしています。


1256年の今から760年くらい前にだ、この本(群書治要)は起こされたわけだけども、このサインというか署名というか、まことにかっこいいね、美しいね、ほんとうに。

街にあふれる変なグラフィティーとかいらないから、
きっちり刻字されているグラフィティーが見たいね。

電車の中吊り広告とか、テレビ、CM、雑誌とかアドビ文字でことごとく溢れているけど、やっぱり文字は手書きが一番美しい。

徳川家康が死ぬ間際に血眼になって編纂させた駿河版本(1616年)は判型としては美しいけれども、だいぶ急がせて作らせたものだから文字が暴れているようです。
上の写真の翻印本は、金沢文庫の所蔵だった群書治要で鎌倉時代の巻物(1256年)を昭和16年に活字に起こしたもので、優しい感じがして、しかも美しい。

1000年くらいの時間感覚で物事を立体的に考えられたら素晴らしいと思う。日常生活のあれこれがどんどん切り捨てられていく、質も量も失ってどんどん軽くなっていく時間の感覚をとにかく大事にしたいと思う。

現状の山の中での隠遁生活を日常ととるか、海上生活を日常ととるか、どちらも同じように天秤にかけて、それを何でバランスさせるかを考えたときに、もはや上記のような時間的にも歴史的にも叩き潰されずに耐えて生き残った強固な書物のようなものでしか支えきれないような気がしている。

日常のこまごまとしたことにいらいらしても仕方がない。
自分はできるだけ鶡冠子みたいな山人生活と、俊寛みたいな島流し生活をとりあえず最大限楽しみたいと思う。遠くまで行けるということは、結論的には幸せなことだから、今ここで見たり聞こえたり感じたりできることを、景色としての日常生活を素直に楽しみたい。





2017年7月20日木曜日

夏やすみの終わり


7月が終わります。
夏休みも終わります。

来月また船に戻ります。
そして、今年も終わります。

来年2月ごろ船から家に戻ります。

また頑張ります。
準備室3号室は漢籍図書室にするつもりです。
群書治要48冊あります。
論衡に説苑も。
船に乗る前に両漢紀(前漢紀+後漢紀)、申鑒が届く予定です。



2017年7月12日水曜日

とにかく体を動かす。前に進むだけ。

街の本屋さんで売ってない本が群馬の山奥にどんどん集まってきています。
まだまだスタート地点にも立っていない感じですが、商売でも、ボランティアでも、なんでもない分、誰にも強制されていない分、自由に主体的に動けるのではないかと思っています。

とりあえず売り切れ散逸前に収めることができた本は以下の通りです。
群書治要 50巻(原本散逸4,13,20巻)48冊(凡例解説含一冊)昭和16年宮内省図書寮翻印版
張九成集 精装本4冊
以下中華再造善本
説苑 <宋咸淳元年鎮江府學刻元逓修本>(清黄丕烈幷跋、清顧廣圻跋)
論衡 <宋乾道三年紹興府刻宋元明遞修本>(清錢謙益批點 清黄丕烈跋 葉昌熾題款)
鶡冠子 <明弘治碧雲館活字印本>
両漢紀 <明嘉靖二十七年黄姫水刻本影印>
賈長沙集 <“啓淑信印”、“古潭州袁臥雪廬收蔵”、“積学斎徐乃昌蔵書”、“南陵徐乃昌校勘経籍記”等印>
朱慶餘詩集 <宋臨安府棚北大街睦親南坊陳宅書籍鋪刻本>(清李振宜題款、清黄丕烈、瞿中溶跋)
はなんとか手に入れることができました。
両漢紀は結構重要な書籍になると思います。
史部経部の大御所典籍(内容的には歴史書。)
春秋左傳正義も探してもらっているところです。
今後は 史部のまとまった正史本も収めたいと考えていますし、
資治通鑑、明通鑑や紀事本末シリーズも集めたいと計画しています。

とにかく体を使って、動けるだけ動くこと、働くこと、頭をフルに使って言い訳せずに、
できるだけのことはやりきること。
周囲に文句言っている間には、時間も過ぎれば景色も変わる。
偉そうなこと言いながらも少しずつでも前に進みたい。
それにしても暑い。





2017年7月7日金曜日

群書治要について

国会図書館のデジタルアーカイブズで確認出来る群書治要のテキストは、昭和16年に宮内省図書寮から出版された活字印刷による和装48冊本。金沢文庫本から翻印したもので、原本テキストにかぎりなく近い。(この時に併せてコロタイプ印刷による巻子本が50部のみ出版されたようです。)本日こちら(和綴じ翻印本)を古書店で手に入れることができました。近年出版された古典研究会叢書本の影印本(7冊精装本)とはまた異なる仕様のようです。四部叢刊に収められているのは天明尾張本テキストなので、こちらとも異なる版本です。宮内庁書陵部所蔵データによると天明版(尾張版本)、元和2年銅活字駿河版本(徳川家康版)、金沢文庫本(巻子本)があるようです。できたら昭和16年に制作されたコロタイプ巻子本も手に入れられたら素晴らしいなとは思っていますが、とりあえず手に入った昭和16年の翻印本の整然とした活字版本をゆっくり時間をかけて読み込んでみたいと思っています。

最近は非常に規則正しい生活を心がけていて、船の生活以上にバランスが取れているように感じている。自分にとって書物や美術作品は単なるコレクションじゃないから、どうやって何を収めるのか、収めることができたのかという部分では一切妥協せずに、周囲のノイズや、コマーシャル的な声を聞きつつも、常に前向きに冷静に進められたら素晴らしいなと今は思っています。

おしゃれなギャラリーで展開されうる物語も、巨大な美術館で展開されうる劇場空間も、自分にはどうしても敷居が違う気がしているから、そんな区画整理された安全地帯も、きれいに整備されたショッピングモールにも確実に距離を置いた上で、何かこれだけは、これしかないだろうという作品に対しては、きちんと正面から向き合っていこうと思います。

他人の受け売りじゃなくて、自分がこれは間違い無いだろうというものに対しては、絶対的に 突き進んでいこうとは思っています。怪我をしようが、血をみようが、そのあたりの痛みは避けては通れないというくらいの覚悟は必要かなと、最近は強く思っています。




2017年6月28日水曜日

能動的な読書

この中華書局から出版されているシリーズは原文と註釈、さらに現代語訳が掲載されていて、能動的に読書を進めるにはとても勉強になる参考書です。
装丁もとても素晴らしく、手に持った感じ、文字の読みやすさなども含めてとりあえず今の所、タイトルも揃っているし、手に入りやすいし価格も手頃だし気に入っています。

中国では散逸し失われた書物が日本に辛うじてのこされた群書治要などを元に再度出版されたという経緯があります。引き続き読書を進めたいなと思います。


2017年6月25日日曜日

巻き物を持って、何を考えるか。

鶡冠子(かつかんし)という書物に興味があり、現在も調査中ではありますが、不思議な感触に包まれている。偶然みつけた最近出版された巻物が手に入った。今時 巻物タイプの書物なんてあるのかと思ったらちゃんと真面目に作ってあって、木箱も含めてこれはもう、自分のなかでの家宝みたいな、貴重書の仲間入りだ。高価なものが貴重というよりも、誰もほとんど見えていない、興味や関心の範疇外のものの方が確実に尊いと自分は思っている。鶡冠子の話から張九成の中庸説という忘れられた書物の話に持っていきたいと思っているが、肝心の張九成の”中庸説”がまだこれから調査調達しようとしているので、話が追いつかない。

”鶡冠子についての研究はほとんどなされていない。" ➡︎おしまい。みたいな文言ばかりで、本当は中身がないとか、偽書、全部偽物なんじゃないかとか、言われている中で、遺跡の出土品の中に関連資料が発見されたとか、それでも全然研究が進んでいないという佇まいがなにしろ興味深い。

それよりもすごいと思ったのが 張九成の"中庸説"という書物の経緯。長いこと顧みられずにえらい学者(朱熹)にディスられて、洪水や化け物(猛獣)のたぐいの書物だからという世間一般の評価に甘んじて、廃れていった書物。これがとりあえず現在なんと本屋で売っている。相当感覚がとがった出版人がいるんだなと思ってみているのですが、あいにく日本での認知度はほとんどない。現物が見たいので何とか頑張って購入してみます。

円爾という僧侶が13世紀に日本に持ち込んだ書物が現存しているが、そこからまったく何の流れも産んでいない、完全忘却の書物 ”中庸説” 。同名の書物はあるけど元ネタが違うのでそれもまた紛らわしくもあり、煩わしいが。張九成の"中庸説"について調べていこう。

とりあえずさまざまな書物に興味があるので手に入れられるものは確実に押さえていこう。


これが巻子本といわれる装丁の書物(巻き物)。(2016年5月初版発行のすばらしい書物。)中はきちんとした鶡冠子のテキストが展開されている。

話は飛びまして、
自分の中の忘れちゃいけないメモとして2014年にここに記録した。自分の中で絶対忘れちゃいけない重要な写真家BOB MAZZERさん。世間はソールライターさんが熱いとかで、本人不在で、がんがん宣伝して好き放題やっていますが、自分はソールライターさんの写真よりも俄然、BOB MAZZERさんの写真の方が好きです。隠遁生活をえらんだ人間の作品にふれるという事は、このソールライターじゃないけども、鶡冠子でもないけれども、極安全領域といった風情や神秘感や絶対非依存的な意識が溢れているように思えて、長年 海の上で生きているのか死んでいるのかほぼ常時音信不通な自分を少し重ね合わせて、遠くの方にかろうじて何か見えるような世界を自力で泳ぎ切りたいなと今は思っています。










2017年6月22日木曜日

新しい古典籍 何を収めるべきかを継続的に考える

最近はずっと読書を継続していまして、手元に本をできるだけ良い状態で確保したいと意識しながら生活しています。中華再造善本が届いた。それぞれが全く同じ形式ではなくて、きちんと独立した書物として完成していた。希望していた何タイトルかはすでに版元売り切れで手に入らなかったが、とりあえずこの西藏志が手に入ったのは良かった。印刷が突出して素晴らしく、使用されている紙もそうなのですが、とにかくこの印刷が素晴らしいというのが実際手に触れて、実物を見て感じられたのが何よりも良かった。上製本ではなく本来の線装本を忠実に再現しているのもまた素晴らしいと思う。






初版本はたったの200部だけでした。中国の人もあんまり買わないのかな?有名な四書五経みたいな本をインテリア的に飾るような消費の仕方なのか?どうかは、いまいちよくわかりませんが。なくなる前にとりあえず中華再造善本、その存在があるという事だけでも気づいて良かった。既に売り切れたタイトルがあるので、根気よく、慎重に集めていきたい。有名なタイトルはおそらくもう売り切れてしまっているでしょうけど、自分の必要とする本に関しては、こまめに集めていきたいと思います。どちらかというと個別の図書館に収蔵されるべき資料性の高い貴重書といった分類です。”西藏志”の内容としましては今から350年位前の清の時代に編纂されたチベット地方の地理志、地方志のような書籍です。
デジタルデータ化の優位性よりもアナログの堅実性堅牢性を自分は意識的に維持していきたいと思います。

機械を扱う身としては、アナログ計器やアナログ操作可能な機械というものは、使い方次第、運用次第でなんとでも応答してくれるのがありがたいと思うことが経験としてあります。デジタルの短絡的な所作出力よりも、途中過程もふくめた生きた言葉なり出力なりを楽しめるような生活を心がけていきたいなと思います。


これは千字文。重続(重續)千字文というものです。

漢籍に触れることのメリットは、自分のペースで文字と意味と内容と向き合えるということだと今は思っています。学者でも学生でも何でもないですが、興味の向くままに、自由なスピードで言語感覚を整える事ができるというのはいい事です。テレビ、漫画、映画などの鋭利な感覚も良いですが、とりあえずは、のんびりと悠久典籍で、意識を時間的に引き伸ばしてみるのも面白いものだと最近は強く感じています。極端に古いという感覚よりも全く新しいもののような感覚がしてくるのは特にこの、造本と文字組み、すなわち生きている文字というか文字そのものの造形を、辞書にのっていようが、いまいがそんな事はとりあえずはどうでもよくて、眺めているだけでも知覚できる形の面白さは十分あるのではないかと思います。



漢籍ではなくて写真作品についてもまた少しづつ調査していまして、未完成な計画中の書籍を出版できるように前向きに準備を進めていきたいと思っています。









2017年6月8日木曜日

線装の次の一歩

なんとか自己完結する形で線装がやりたくて、試行錯誤している。単なる四つ目和綴じならば、すでに写真綴じも含めて普通紙において可能となった。さらに、初期のかっくら返し折本も普通紙での印刷も含めて可能となった。

次の段階として、書道半紙やインディアペーパーのような薄い紙での印刷を含めた和綴じ製本までを、自己完結させたいと思って試行錯誤している。ここでは印刷というのが非常に曲者で、難しく手間がかかる。テキストを版木から制作するのも視野に入れて、浮世絵の多色刷りを実践させたものが正攻法だとすると、今自分がやっているのは、一般のプリンターを使った印刷および製本を実践している。汎用機械の特性を理解した上で応用していく。これが可能になったら、自分でそれを下支えする形できちんと版木のデータを起こして、文字を彫って、本来の版として原版製造するところまでやりたいと思う。

中華再造善本の実物はまだ見れていないけれども、印刷の状態から判断して、それを超えられるような、ものとしての版木の制作という本来あるべきプロセスの重要性を考えながら自分で全てを実践してみたい。その辺に意味がある。

今日は半紙の薄い紙に写真データを印刷することに成功した。
通常の印刷だと紙が詰まってしまうのだけれども、いろいろな試行錯誤を経て、きちんと見られる状態の印刷が実現できた。つまりは本来の線装で使用される、あの軽くてパラパラしたふわふわした状態の紙に写真が印刷できたということである。普通紙や写真用紙のような分厚い紙を使用した、なんちゃって和綴じとは、わけが違うのである。
続けて、この薄い紙にトンボ線を入れて、綴じ穴位置、センター折り目を入れて一枚のページとして完全制作としたい。

大阪の古書店さんから”書林清話”という線装本を購入した。葉徳輝の作品である。
書物というのは、こういう形で生きていくのかと感慨深く、ただ単に原稿を業務用印刷機で大量印刷して上製本でまとめただけでは全く歯が立たない本来の書籍文化がここにあるという絶対的な事実が確認できた。

この手のお金にならない個人の制作に対して、馬鹿にされることも、不甲斐ない思いをするのもまあ、想定済みで、それ自体には、もはやなんとも感じなくなった。ただ自分の意識として、きちんとした本を作りたいというのが根底にある。自分は純粋に校訂や編集作業、印刷綴じ、製本までを実践的に深めていって、どこぞの古典原本ありきの、受け売りの価値を読者に丸投げするような、原本デジタルアーカイブなどというクソつまらない代物に、本作りの意義や意識を吸い取られるようなことだけはしたくないという状況ではある。

じゃあどうするか?とりあえず自分のこれだというものに対して誠実に、校訂と編集を重ねていって、時間がとてつもなくかかるのだけれども、一つでも多く息のかかった本を制作していきたいと今は思っている。模造漢籍を作るのではなくて、これを土台にして写真集を作るのに応用したいということです。テキスト、写真、版面、印刷、装丁、函、すべてに失われつつある漢籍の技術が活かせると思うのです。


2017年5月28日日曜日

厩戸(うまやど)からグラフィティまで



今取り組んでいるのが、群書類従でもなく、中国の純粋な漢籍叢書でもなく、流行りの域外漢籍叢書(あるいは東亜漢籍と呼ばれるもの)を自分なりに系統立てて調査して、まとめている。和歌とか詩とかは、ぬるい生暖かい感じがしてあまり好みじゃないので、シンプルに明快な表現方法である漢文表現を自分は好んで探求している。

今現在漢文(漢詩とか書の篆書ではなくて)を扱っている表現者が日本にどれだけいるのか知らないけど、とりあえず、きれいに過去のものとして切り離されてしまっていて、すかすかで空洞な感じがして、自分の今の心境とマッチしているのでこれで進めたい。

群書類従 のしょっぱなが"皇太神宮儀式帳"で西暦804年くらいの文物。これを木版製本印刷して集めた塙保己一はやっぱりすごいと思う。いまじゃ電子書籍でデータ化されて商品化されているという現状が、なんとも皮肉というか 郷愁がある。

で自分が調査中の叢書の一番出だしは聖徳太子の三経義疏(さんけいぎそ、またはさんぎょうぎしょ)これが西暦600年くらいの書物。日本に現存する漢籍関係書物が時代を遡ってどのくらいあるのか?という部分も含めて、自分なりに俯瞰したり仰望したりやっていこうと思う。

群書類従の大きな要素としては和歌、で漢詩はほんのすこしあるのみ。詩でかかれた史書じゃなくて自分が丁寧に見ていきたいのは漢文でかかれた日本の史書。すでに国立図書館でアーカイブ化されて無料で見られるものもある。ゆったりと時間をかけて取り組んでいきたいなと、そんな風に思っていますが。

一方で上にグラフィティ作品を2つ参考にあげてみました。
一般的な美術館が拾いきれない、評価が追いつかないすばらしい作品を作るひとたちの作品もがんがん調べて、集めていこうと考えています。上の2つの作品はだいぶ前から推しているVins Feel Freeという名で活動を続けているバンさん(ビンさん?)のすばらしい路上の作品だ。単純なエロでもないし、カラーリングのごまかしでもないし、バランスも良いし、すごく良い感じのまとめ方をしている。

最近のニュースですと、バスキアの作品をオークションで億の金額で落札したというニュースがありました。もうそれってパフォーマンス芸みたいな印象で作品の価値とかじゃなくて、上野動物園にパンダが初めて来ました的な やわい微笑ましいニュースにしか思えない。まったくこれっぽっちの緊張感も、作品にまつわるもエピソードも伝わってこないのが誠に微笑ましい限りです。

自分は紙と鉛筆、材料資材を調達して、手製で 厩戸皇子の三径義疏を印刷物としてどうやってまとめて、さらには現在までの日本における域外漢籍を一連の叢書として どうやって編纂していけるのかをのんびりと考えていこうと思います。








2017年5月21日日曜日

葉徳輝=觀古堂藏書目


注文していた2つの千字文が家に届いた。
宋徽宗瘦金書千字文
趙孟頫真草千字文 の二つ。

こちらの本というか冊子は必要最低限の綴じで、バラして使うもよし。部分的にコピーして文字を解体してもよし。とりあえずさらりと眺めて、これを叩き台にして文字組みを作ろうと思う。瘦金文字はすばらしくバランスが良いと思う。そして美しい。

いままで低空飛行でそれほど興味も関心もなかった漢籍に対する興味関心が膨れ上がって今ひたすら調べている。まあよくもこんなにたくさんの本が生き残っている事だと驚いている。資料をずっと調査していて、中途半端なテキストは使い物にならないとか、原本じゃなければだめだとか、いろいろ思うところはあるのですが、こちらの諸子百家なるデータベースサイト(特に圖書館)はとにかく素晴らしい。辞書機能からピンイン、原本までシームレスで繋がっている。

明治書院から何十年かかけて、じわりじわりと出版され続けている新釈漢文大系本の特上バクラム装(函入り)が、本としてすごく興味深く、また手に入れやすいところではありますが、そちらにはひとまず手を出さずに、まずは江戸から明治時代の漢学者の成果を結集した漢籍国字解全書なる1900年くらいに出版の、こちらの書籍のテキストが誠に素晴らしい。こちらに集約されまとめられた全集の種をさかのぼる形で原点回帰=個別の原典を探っていこうと思う。熊沢蕃山や市川鶴鳴、市川鶴鳴は近所の高崎市立図書館に俳山亭文庫として蔵書が所蔵されているようなので、資料のコピーでも良いので依頼して自分なりに分析と校訂をしたい。そして一番面白いだろうところでは=牧野謙次郎に桂五十郞のいいとこ取り集約本じゃなくて、がちの原典を読んでいこう。

美術でも図書でもその時代に現存しているという事実を踏まえた上で、手元に引っ張り出してきて、現物を見られるようにできたら、こんなに素晴らしい事はない。一部の研究者や蔵書家の予防線みたいな位置付けじゃあ、作品がまったく浮かばれないと思います。まあそんな事を自分が言ってみたところで、仕方がないのですが。まずは体を動かして体験する事がなによりも重要だとは思います。ものを見ないで印象や他人の分析結果の受け売りをしても何にも面白くはないと強く思います。

明治維新の幕末の志士とか、出尽くした感のあるエピソードや武勇伝みたいなきれいごとやあとづけ話には、これっぽっちも興味ないのですが、個人的に、漢学者周辺の生臭い感じの物言いや行動にはすごく引かれます。時代錯誤感と自己顕示欲の暴走みたいな。紀元前の文字組みを引っ張り出してきてあれこれ議論するところとか狂人ぽくて、その一方で人間味溢れる生き方もしていて誠にすばらしい。

中国清朝末期の漢籍がらみの列伝も非常に人間くささで溢れていて興味深い。静嘉堂文庫の陸心源=宋元版の橋渡しをした島田翰のエピソードや、清朝末期の葉徳輝による雙梅景闇叢書にまつわる話、毒を持って毒を制すみたいな人間臭さがたまらない。また清朝第5代皇帝=雍正帝による大義覚迷録(取り調べ記録)がデータベースから原本を見られるので、少しずつ読み進めてみたい。

2017年5月17日水曜日

申鑑と籀史を善本で。

一日中、本と向き合ってそれで 目が飽和して見えづらくなって少し休んでまた本を調べている。昨日は、いろいろ調査した上で申鑑籀史という2種類の本、さらに気になる幾つかの本をまとめて発注してみた。在庫があるのかわからないけど。とにかく読んでみたい。

和訳とか注訳とかではなくて、あるままの本をとりあえず読み込んでみて、たぶん1割も理解できないんだろうけれども まずはそこからスタートする。再造善本を日本から手に入れるには今の所、書虫か東方書店が大きな経路となっている。そこから取り寄せてもらうので、普通の本屋さんからは『再造善本??えっ?』『はぁ??なんですかそれ??』みたいな、感じでしょう。ISBNコードは付いているようですが。。

装丁が線装(日本でいうところの和綴じ)でサイズが8開(430x285mm)だからA3用紙くらいの本というわけです。しばらく可能な限り善本を集めていこうと考えています。
この再造善本シリーズの素晴らしいところは、他の叢書類とは異なり、いままで全く評価の蚊帳の外で批評の場すら与えられなかった系統の本を敬意を持って、かつての名著とされるものと同列に置いている事、むしろそれ以上の期待と可能性を生み出す余地をもたせた上で、少数民族の文献も含めている事がなによりすばらしい。まだ全貌は、はっきりしないけど現在進行系のプロジェクトという事で、既出の宋元版パッケージとは違う価値を見出している。

 海から戻ってきたけど、今回は試験勉強というか、とにかくいままでずっと放置してきた課題に取り組んでいる。なのでおとなしくじっと派手な事はせずに、じっくりと自分の眼の前の仕事に取り組んでいきたい。それにしても田舎生活は本当に気分が良い。変な都市開発は、問答無用で自然に飲み込まれてほしい。山河あり上等です。

ところで 一個100円くらいで1cm四方のゴム印が製作できるので、1000字くらいの文字組み一式をまとめていって印刷物に応用できないか実験してみたい。いま復活しつつある卓上活版印刷とか中途半端なものじゃなくて、もっと大袈裟なやつ。工業化や大量生産できない方向のものに目を向けて、単純にアートだ芸術だとパッケージ化せずに、ものをうみだす根源的な衝動に自由に反応するべきだと思う。

2017年5月14日日曜日

版木か文字印か

最近はずっと叢書について調査していまして、例えば群書類従だったり、四庫全書だったり。今も走っているプロジェクトとしては再造善本、これが線装(和綴じ本)でオリジナルを蘇らせるというすごいもの。集めるなら今なのだろうか?すでに説文解字とか学術研究の要になりそうな文献は売り切れてしまっている様子も見られます。漢書100冊セットで130万円とか、通史120冊セットで440万円とか、車、家など買うくらいならば通史を買うほうが、人生設計的には正しい選択のような気がします。

気になる本として、聊斎志異の異本をとりあえず押さえておきたいところでしょう。
何垠注釈本聊斎志異青柯亭刊本聊斎志異、これは手に入れたい。編集の違いで本も生まれ変わるし、装幀の違いで本が別物に変身する。物語としての面白さを軽く通り越しての、本そのものとしての面白さ、奥深さをこの再造善本シリーズは教えてくれそうです。

七経孟子考文のような例もあり、また静嘉堂の宋元版のような例もある。原本に忠実にという意識や絶対観は高尚で崇高で確かに見栄えはするけれども、そこからさらに先に進んでいくと、一般に五万と流布している誰も見向きもしなくなった本に校訂、考証、注疏を盛り込んでそれ自体をかぎりなく原本に近づける、あるいは通過させた上でその先の新しい価値を限界まで盛り込んでいく作業が必要になる。

マスターとしての版木(原典)にこだわるか、文字印の入力信号(校訂)にこだわるか? 自分の場合はかぎりなく文字印の側に立った上で、文字そのものの持つ効果を考えていきたい、生かしていきたいと思っています。その意味で原典に触れる事と同じく、変質変容をとげた汎用流布品を校訂にかける作業もそれ以上に重要になってくるのではないでしょうか?

日本で国宝に指定されているごとき本が、中国で丁寧にコピー(再造)されて、それを購入できるという現状に一義的にどうこう言う前に、まずはその本を読んでみる事、触れてみる事が何よりも大事なのではないかと思う。美術館の奥底に眠っている作品も、図書館の奥深く眠っている本もとりあえず見て触れられるだけの場所に引きずり出して、そこから話を始めていきたい。そういう意識で、与えられたものを、再度与え返すという、校訂するという方向性に価値を見出したい。

2017年3月15日水曜日

やぶれた山河


日本の怪談とも違うし、アメリカのラブクラフトとも違うような感じで、
自然とか動物とかを題材にしたのっぺりした文章が読みたい。
今 手元にあるのが莫言の白檀の刑とラブクラフト全集1。
読書をする事で気分を 落ち着かせている。

国破れて山河ありみたいなのっぺりした物語が読みたい。
高尚な文学とかじゃなくて、例えばたくあんの切れ端について延々じいさんとばあさんが問答している傍らで、太平洋戦争がはじまっちゃう話とか。
井戸の水を汲みに行って帰ってくる間までの山とか川とか景色とかを綴った話とか。

現状船に乗っているのでまだ実物の本を手にしていないのですが、
”点線面”さんという本に文章を掲載させていただくことになりました。
連載という形式で、文章の量は少なめですが船とか、それ以外でも自由に書かせてもらえるということで、まじめに、そして できるだけ、のっぺりとした文章を書いて行きたいと思っています。





2017年1月10日火曜日

2017年について

今年はどんな本を作ろうかとか、どんな作品を調査しようかとか、そういう事を考える事はあっても、なかなか新しい事を勉強しようとかいう考えがでにくいのは、きっと意識が飽和している部分があるからだと思う。

なので 2017年は新しい事を勉強したいなと思います。
努力目標と言うか 勝手な思い込みで 目標にしていた出版社が単なる出版屋に成り下がったことや、 おもいがけず、くそだと思い込んでいた作り手が実は素晴らしいと改めて意識を改革してくれた事など2016年は発見の年だった。

自分における反省点を前向きに冷静に少しでも良い方向へすすめたいと思います。

2017年1月9日月曜日

本屋ではなくて 転売屋ではなくて 図書館でもなくて。





オーストラリアと日本を往復している。
日本に着くと言う事は荷物が受け取れると言う事だ。
WWB2016が一冊、やっと自分のところに届く。

家が廃墟のような枯れ草浅茅が宿の上、娑婆での生活を終えて、
晴れて島流し渡世と言う感じ。

ロシンブックスさんが蔵書を売却すると言うメールが自分のところに届いた。
これは一体どういう事だろうか?
写真集を作るための資金が足りないから、コレクションを見切りするという体裁か。
ビジネスにはお金が必要という証明か。
わかり易い。

自分は、はなからビジネスと出版を切り離している。
儲かろうが儲からなかろうが自分の活動とはまったく関係ない。
自分の準備室活動も メノウブックスも、
ちんけな投資や金儲けとは完全に切り離している。

違いはどこにあるのか。
何が違うのか はっきりしようがしまいが とにかく自分はこのやり方で
活動を続ける。

金で身動きとれないようじゃ さっさと出版なんかやめた方がいいと思うんだ。
志が低すぎる。
コンパスも、時計も、狂っているならば 船は目的地にはたどり着かない。。